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張倹(ちょう けん、963年 - 1053年)は、遼(契丹)の政治家。字は仲宝。本貫は宛平県。 == 経歴 == 張雍と劉氏のあいだの子として生まれた。統和14年(996年)、進士に第1位で及第すると、雲州の幕官として召された。聖宗が雲中で狩猟したとき、節度使が張倹を推挙した。張倹は30あまりの事柄を聖宗に奏上して、重用されるようになった。 開泰元年(1012年)、政事舎人に任じられた。2年(1013年)、枢密直学士となった。3年(1014年)、工部侍郎・知制誥の位を加えられた。4年(1015年)、参知政事・同知枢密院事に進んだ。7年(1018年)、守司徒・政事令となった。太平5年(1025年)3月、武定軍節度使・同政事門下平章事として出向した。6月、彰国軍節度使に転じた。12月、大同軍節度使に移鎮した。6年(1026年)3月、召還されて南院枢密使となった。参知政事の呉叔達が張倹と協調できず、聖宗の怒りを買って康州刺史に左遷された。いっぽうの張倹は左丞相・政事令となった。 景福元年(1031年)、興宗が即位すると、太傅に任じられ、同徳功臣の称号を賜った。重熙元年(1032年)、太師となった。4年(1035年)、尚父の位を加えられて、秦国公に封じられ、貞亮弘靖耆徳功臣の称号を賜った。5年(1036年)、張倹の発案により、興宗が礼部貢院に幸して、みずから進士を試験した。6年(1037年)、韓王に封じられた。11年(1042年)、陳王に徙封された。 張倹は給与を親しい人々に分け与え、みずからは粗食粗衣の生活を送っていた。興宗は張倹の清貧をあわれみ、内府の布を取らせて、衣服を仕立てさせた。興宗は張倹の弟5人に進士及第の身分を賜ろうとしたが、張倹は固辞した。あるとき役人が8人の人物を盗賊として捕らえて処刑したが、後になって真犯人が捕らえられた。8人の家人が冤罪を訴えたので、張倹は再審理を求めた。興宗は再審を渋ったが、張倹の諫めを容れて8人の名誉を回復させた。張倹は宰相の位にあること20年あまり、一線を退くと邸に隠居した。 ときに北宋の信書に無礼な言葉があり、興宗は親征しようと考え、張倹の邸に幸して意見を聴取した。張倹は「ひとりの使者を派遣して詰問させればすむことを、なぜ遠方まで車駕を労することがありましょうか」と利害を説いて諫めたので、興宗は南征を取りやめた。22年(1053年)、張倹は死去した。享年は91。勅命により宛平県に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張倹 (遼)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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